母の死

母の死

母が亡くなり10日が経った。母は口癖のように「100歳まで生きるとたい」と言っていたが、100歳を前に95歳の生涯を閉じた。

大正生まれの母は、持ち前の明るさで戦中から戦後の貧しさの中を力強く生きてきた。戦後まだ物資の乏しい頃、佐世保駅前の闇市で祖母と一緒に路上で商売をしたらしい。売るものがなくなると隣の仲間から商品を買い、その商品を並べては商いをしたと兄から聞いたことがある。笑顔で語る母が見えてくる。

私がまだ幼い頃、家の奥で煎餅を焼いていたことがある。商売の下手な父はその煎餅を自転車に乗せて行商に行っては売れずに持ち帰り、よく母に詰られていたようだ。気丈だった母は、私を背負い父が持ち帰った煎餅の一斗缶を両手に下げて汽車に乗り佐世保へよく出かけた。

母の背中で「母ちゃん、ぼくが大きくなったら駅長さんになる」何で?と聞く母に「駅長さんになったら母ちゃんの汽車賃がいらんもん」と言っていたと、母が笑顔で話して聞かせてくれたことを思い出す。 ※いらんもん ー 不要だ

物が乏しかった時代を生きてきた母は、物が無駄になることを嫌い「もったいない」と、いろいろな物を溜め込み捨てられずにいた。かなりの年代物で壊れてしまった冷蔵庫の中に新聞紙が入っていて、「冷蔵庫は使えないから捨てよう」と言うと、「物入れになるから捨てない」と言った。

また、カビの生えた割り箸が捨てずにあるので「処分するよ!」と言えば、「焚き付けになるから取って置く」と言う。その他にも捨てると言えば「いつか使うのだから捨てては駄目!」の繰り返し。最近になり、同年の親を持つ同じ世代は、私と同じようなやり取りをしているのだろうと思えるようになった。

母は根っからの頑固者で、根性が座っていた。自分が正しいと思ったことには絶対怯むことはなかった。弱音を吐くこともなかったし、涙を流す母の姿は見たことがない。完璧なほど自分中心に生きてきた母であったと思う。振り返ると母ほど幸せな人生はなかったのではないだろうか。

元気だった頃の母は、朝起きるとまず三面鏡の前に座り、約1時間ほどかけて丹念な化粧を施し、そのあと仏壇の前に座りお線香を上げていて、これが毎日の日課になっていた。「ご先祖さんに守られているとたい。だから100歳までは長生きするとたい。」嬉しそうに語る母を思い起こせば、100歳前に亡くなるなどとは考えもしなかったに違いない。当然、何の疑いも迷いもなかったと思う。

父が昭和59年に68歳で他界してからは、父の弟である叔父の面倒を見て暮らしてきた。叔父は若い頃に病気で片足を切断し独身のまま生家で過ごしてきたが、その叔父も平成11年に亡くなった。

その後、母はひとりのんびりと植木や花を育てながら過ごしていたが、私が帰省した平成16年から翌年6月まで同居することが出来た。同居の間はマイペースな母に私はついていく事が出来ず、毎日のように癇癪を起していたが、今思えば私だけの一人芝居だったようだ。

同居したことは私の一番の思い出になった。