男の料理ー「生姜の味噌漬け」作り!

男の料理ー「生姜の味噌漬け」作り!

2年ほど前のこと、お気に入りの地元産の「生姜の味噌漬け」を買ってきた。ところがいつもの味とはほど遠く全く美味しくない。不味いものは頂けないし、返品する訳にもいかず我慢しガッカリすることしきり。。。

この日から、自家製「生姜の味噌漬け」作りに挑戦。インターネットで「美味しい生姜の味噌漬け」を検索し、比較的簡単そうな作り方を参考にしながら、オリジナルの「生姜の味噌漬け」作りがスタートした。

今年は知人の畑を少々お借りし、生姜のタネを2畝植えることにした。畑は今年耕したばかりで土壌は肥沃とはいかないが、春に植えた生姜は約7kgほど収穫することができた。

さて、「生姜の味噌漬け」は、一般的には漬ける前に生姜の水分を抜くため塩をまぶして重石をするようだが、我が家は以下のように至って簡単な作り方だが、意外にもとても美味しく好評だと自分だけは思っている。

① 生姜は、良く洗って土をしっかり落とし、沸騰したお湯に2~3分入れたあと自然乾燥させておく。味噌は漬物用味噌を購入、適量のお酒と三温糖を準備する。砂糖の量は好みで調整する。
(今回は、生姜3.6kgに対して味噌5kgと三温糖600g、酒は100ccほど使用した。)

② 味噌はやや硬めのビニール袋に入っているので、その中に直接お酒と三温糖を放り込みしっかり揉むように混ぜ合わせる。我が家は白砂糖をあまり使わないが、これも好みで良い。

③ 混ぜ合わせた味噌に冷めた生姜を放り込み、しっかり漬け込む。ビニール袋の中の空気をしっかり抜き、ビニール袋を輪ゴムやビニール紐などで閉じる。

あとは冷蔵庫(野菜室)に入れて3~4ヶ月待つと出来上がり。早く食べたい時は、生姜を薄めに切って漬け込めば1~2週間で出来上がる。

前回漬け込んだ生姜は年末には美味しく出来上がる予定だ。

こんな医師の説明っていいの?

こんな医師の説明っていいの?

つい最近、知人から聞いた話です。母親が、足の親指を深爪し化膿してしまい、医者にかかり薬を飲んでいたところ、吐き気がして食欲が無くなってしまった。担当の医師に聞いてみると、「背中が曲がっているため」との説明があり、「とりあえず薬を休みましょう」と言われたようだ。母親は「抗生物質を飲んでから具合が悪くなった」と言っていて、薬の副作用ではないのか? と話してくれた。

抗生物質の服用で起こりやすい一般的な副作用としては、胃の不調や下痢があげられるが、担当の医師はなぜ「背中が曲がっているため」と説明したのだろうか。

確かに背中が異常に湾曲していれば胃を圧迫してしまい、胃の不調を起こすことが考えられる。しかし、背中の湾曲が原因だとすれば、薬の服用にかかわらず普段から胃の不調を訴えていると思われる。

知人の母は以前にも、風邪がなかなか治らず症状が改善されないので薬が合わないのでは?と、同じ医師に訴えたことがあり、この時医師からは「これで良いので黙って続けるように」と怒られたことがあった。もう少し患者の立場に立った説明が出来ないのか。このような説明では医師への不信感が募ってしまう。

染付け作業を再開!

染付け作業を再開!

先月の中旬から休んでいた作業を再開しました。夏の猛暑の中で汗だくになりながらの作業で(我が家にはエアコンが無い?)、熱中症で搬送されるのは・・・・。と言うことで長期休暇でした。

今日は下書きをやってみました。2歳になる孫にプレゼントを予定していて、ガンダムはちょっと理解するのは難しいかも?と思いながらを描いてみました。今までは下書きなしで描いていたが、複雑な構造のガンダムを描くには、下書き無しで描くのは少し難し過ぎたので今回は下書きから挑戦です。

何とか様になりましたが、この後の筆による絵付けが一苦労なのです。うまく行くか心配です。

スープカップも下書きから新たに挑戦です。

近藤誠医師VS大場大医師の「がん放置療法」対談 

近藤誠医師VS大場大医師の「がん放置療法」対談

週間文春8月13日・20日夏の特大号に、”がん放置療法〟は正しいのか?のタイトルで、慶応義塾大学医学部を昨年退職され、『医者に殺されない47の心得』の著者でもある近藤誠医師が主張する”がん放置療法〟に対して「近藤先生の論法は危険だ」と真っ向から異を唱える大場大まさる医師の対談が掲載された。

近藤誠医師は慶応義塾大学医学部放射線科講師の傍ら『患者よ、がんと闘うな』ほか多くの著書を出版されてきた。 特に2012年に出版された『医者に殺されない47の心得』は2013年に100万部を越え、多くの反響を呼んでいる。

また、週間新潮9月3日号には、上記の記事への大場医師による「近藤誠医師7つの嘘」の反論記事が掲載された。 記事を読む場合、現在抗がん剤での治療中の方や病気が見つかったばかりの人、患者の家族や知人など、どのような立場にあるのかによってとらえ方が違ってくるのではないだろうか。

医療を受ける患者は、自分に適した治療だと信じて医師に従うのが一般的だが、こうした情報を知ると果たしてどちらの意見を信じて良いのか迷ってしまうのだと思う。 近年こうした情報は簡単に得られる環境が出来てきたが、自分にその情報が本当に適しているのか良く見極めることが必要だ。 患者や患者の家族の大半は医学的な知識が十分でない場合が多いと思われるので、主治医に委ねてしまうケースが多いようだ。

医療を施す医師の立場と医療を受ける患者の立場では考え方に違いがあって当然で、インターネットでは公的な機関による情報が発信されているので大いに参考にしながら、積極的に最新の医療を選ぶか、または東洋医学を含めた穏やかな医療を選ぶかは、自分自身の考え方や生き方で選択するのも良いのではないかと思う。 いずれにせよ医療は患者側に立ったものでなくてはならない。

私も長い間医薬品の相談・販売を通して薬局で従事してきた経験から、医療の裏側の実態に多くの疑問を持ってきた一人だ。  医師向け最新医学・医療情報サイトの「m3.com」を見ているが、毎日驚くような医療ニュースが配信されてくる。 現在、マスコミで取り上げられる医薬品による副作用や手術等の医療事故は、氷山の一角に過ぎないと強く感じている。

自作の徳利で一献

自作の徳利で一献

先月の中旬に遊び心で作った徳利。 昨夜は涼しかったこともあり日本酒がいいね!と食卓に登場です。いつもは一合弱のやや小さめの徳利で一本だけ燗をつけるのですが、昨夜は自作の徳利(270ml 一合半)入る大き目サイズで飲んだため、いつもに増して程よく酔っていい酒になりました。

染付けへの挑戦は懲りずに続いていますー2

染付けへの挑戦は懲りずに続いていますー2

梅雨明け以来、真夏日が続いていたため中断していた下絵付け(染付け)の作業を再開しました。やや大きめのプレート皿(32×14×4cm)への絵を5枚描き、皿の底の部分(高台)へ蝋を塗る作業に初挑戦です。

このプレート皿は高台部分が平らになっていて、そのまま釉薬を掛けることが出来ないため蝋を塗る必要があります。そこで鍋にパラフィン蝋とアルミナを混ぜ火にかけて溶かし、皿の高台部分に塗布します。

釉薬がけも今回で3回目。前回までは釉薬の濃度を45%で行っていましたが、今回はやや薄めに42%で調整し釉薬がけを行うことにしました。濃度調整のあと釉薬を大き目のタライに移し、皿から作業を開始しました。

釉薬がけもなかなか至難の業で、短時間で手際良く行わないと分厚い釉薬がかかってしまうので、程よい状態の仕上げるためには慣れるしかないようです。

釉薬がけが終わり、翌日窯元で焼成してもらい、翌々日に待望の作品が出来上がりました。

今回試作したスープカップも自分のイメージに近づきました。

NHKの朝ドラ「まれ」に出てくる『魔女姫人形』描いてみましたが、染付けも良いものですね。

  

染付けへの挑戦は懲りずに続いていますー1

染付けへの挑戦は懲りずに続いていますー1

6月から始めた染付けの挑戦から約2ヶ月経ちました。前回の反省を活かすために昨日は近くの窯元へ見学に行ってきました。工房での作業を見ていると熟練した筆さばきです。何年くらい携わって居られるのか聞いてみると「20年は経つ」とのこと。今までは作業場を何気なく見ていたせいか、作業台を見落としていました。簡単なようで難しい絵付け作業です。やはり作業台は必要です。

と言うことで早速作業台を作成してみました。やや低くして自分に合った高さで挑戦です。

絵付けが出来上がりましたが・・・

付けが出来上がりましたが・・・

先月、下絵付けのあと釉薬掛けにも挑戦しましたが、出来上がってみるとガッカリ。下絵の段階では素人なりにどうにか描けたので、内心はうまくいくと思い込んでいましたが、やはり素人はこんなもんだと言うことがわかりました。
線描きや色の濃淡を施すには熟練が必要です。そうは簡単に描けるものではありません。
下絵の段階ではうまく描けているだろうと思い込んでいただけに、焼いてみると線が太かったり薄く描けていたりしています。

30個ほど描いてみましたが、ご覧の通りでした。絵付けの難しさを実感しました。

磁器の絵付け(下絵付け)に挑戦

磁器の絵付け(下絵付け)に挑戦

日本で最初に磁器の焼成に成功した有田は、来年2016年に創業400年の節目を迎えますが、有田焼が日本全国津々浦々まで知れ渡っているものの、有田焼がどのようにして作られているのか詳細を知っている人は少ないと思われますので、有田焼が完成するまでのプロセスを紹介したいと思います。

有田焼が完成するまでには多くの工程が必要になります。

1.粘土作り。 磁器の原料である陶石を砕いて粘土状にします。

2.成形。 ロクロや型を使い皿や茶碗などの原型を作ります。

3.乾燥させる。

4.約800度の温度で焼いて素焼きにします。丈夫になるので絵が描きやすくなります。

5.下絵付けをします。素焼きした素地に文様(模様)を描きます。

6.うわ薬(釉薬)をかけます。釉薬をかけることで表面がガラス質になります。

7.本焼き。 1200~1300度の高温で焼きます。焼き物は硬く焼きしめられ素焼きの大きさから約10~15%ほど小さくなります。

8.上絵付けをする。赤・黄・緑・金などで描きます。

9.再度、約800度の温度で焼きます。

こうして有田焼が出来上がりますが、本焼きだけの状態で完成させるのが、一般に染付けと呼ばれ、青の絵の具(呉須-ごす)で描いた焼き物です。

※ 佐賀県立九州陶磁文化館 やきもののつくりかた

さて、今回私が行う作業は5番目の下絵付けですが、

紙に描く作業と違い、素焼きの焼き物に描く作業は容易ではありません。
何故かと言えば、ちょっと油断すると素地に絵の具が吸われてしまい、にじんでしまいます。

また、紙や画用紙とは違い筆が滑らないので、うまく描こうとしてもとても難しい作業なのです。

と言うことで、絵描き職人さんたちの苦労が良くわかります。

10年ほど前に絵付け体験の経験を思い出し、挑戦して出来上がった作品です。
色の濃さを調整して濃淡をイメージしながら描きましたが、果たしてうまく出来上がるか?不安もあります。

このあと、本焼きをすれば完成です。どのように出来上がるか楽しみでもあります。

母の死

母の死

母が亡くなり10日が経った。母は口癖のように「100歳まで生きるとたい」と言っていたが、100歳を前に95歳の生涯を閉じた。

大正生まれの母は、持ち前の明るさで戦中から戦後の貧しさの中を力強く生きてきた。戦後まだ物資の乏しい頃、佐世保駅前の闇市で祖母と一緒に路上で商売をしたらしい。売るものがなくなると隣の仲間から商品を買い、その商品を並べては商いをしたと兄から聞いたことがある。笑顔で語る母が見えてくる。

私がまだ幼い頃、家の奥で煎餅を焼いていたことがある。商売の下手な父はその煎餅を自転車に乗せて行商に行っては売れずに持ち帰り、よく母に詰られていたようだ。気丈だった母は、私を背負い父が持ち帰った煎餅の一斗缶を両手に下げて汽車に乗り佐世保へよく出かけた。

母の背中で「母ちゃん、ぼくが大きくなったら駅長さんになる」何で?と聞く母に「駅長さんになったら母ちゃんの汽車賃がいらんもん」と言っていたと、母が笑顔で話して聞かせてくれたことを思い出す。 ※いらんもん ー 不要だ

物が乏しかった時代を生きてきた母は、物が無駄になることを嫌い「もったいない」と、いろいろな物を溜め込み捨てられずにいた。かなりの年代物で壊れてしまった冷蔵庫の中に新聞紙が入っていて、「冷蔵庫は使えないから捨てよう」と言うと、「物入れになるから捨てない」と言った。

また、カビの生えた割り箸が捨てずにあるので「処分するよ!」と言えば、「焚き付けになるから取って置く」と言う。その他にも捨てると言えば「いつか使うのだから捨てては駄目!」の繰り返し。最近になり、同年の親を持つ同じ世代は、私と同じようなやり取りをしているのだろうと思えるようになった。

母は根っからの頑固者で、根性が座っていた。自分が正しいと思ったことには絶対怯むことはなかった。弱音を吐くこともなかったし、涙を流す母の姿は見たことがない。完璧なほど自分中心に生きてきた母であったと思う。振り返ると母ほど幸せな人生はなかったのではないだろうか。

元気だった頃の母は、朝起きるとまず三面鏡の前に座り、約1時間ほどかけて丹念な化粧を施し、そのあと仏壇の前に座りお線香を上げていて、これが毎日の日課になっていた。「ご先祖さんに守られているとたい。だから100歳までは長生きするとたい。」嬉しそうに語る母を思い起こせば、100歳前に亡くなるなどとは考えもしなかったに違いない。当然、何の疑いも迷いもなかったと思う。

父が昭和59年に68歳で他界してからは、父の弟である叔父の面倒を見て暮らしてきた。叔父は若い頃に病気で片足を切断し独身のまま生家で過ごしてきたが、その叔父も平成11年に亡くなった。

その後、母はひとりのんびりと植木や花を育てながら過ごしていたが、私が帰省した平成16年から翌年6月まで同居することが出来た。同居の間はマイペースな母に私はついていく事が出来ず、毎日のように癇癪を起していたが、今思えば私だけの一人芝居だったようだ。

同居したことは私の一番の思い出になった。